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私の住むマンションの前の道を、まっすぐ西に15分ほど歩くと、
故宮の東門、"東華門"にぶつかります。
この門の内側一体は、
明清の時代に、官僚たちが勤務していた場所でした。
現在、故宮博物館としては対外開放しておらず、
文物管理など事務作業が行われているようです。
だから、観光客はこの門から入場することはできません。
この東華門、故宮の他の門とは異なった特徴があります。
それは何でしょう?
数字の中で1番大きい数は"9"。
皇帝もこの数字を尊びました。
故宮の部屋の数も、9,999部屋と言われています。
(1973年の調査では、8704部屋だったらしい)
そして、故宮の門についている大きな鋲は、
縦に9個、横に9個です。
こちらは、午門の中央口の扉です。
数えてみてください。

天安門も、他の門も、皆9x9=81個の鋲が付いています。
こちらは、東華門の扉。

縦には9個ありますが、横は8個ですね。
これは、どこの門でしょう?

出勤する職員のために開放されている、
東華門の中央の扉です。
前のブログにも書きましたが、
清の時代、午門を通れるのは皇帝だけでした。
明の時代はもう少し規制がゆるかったそうですが、
皇帝は午門から、皇太子は東華門からと決まっていたそうです。
皇帝の通る門と区別するため、鋲の数が少ないのです。
明の11代皇帝正徳帝(朱厚照)が16歳で亡くなった時、
弟も息子もおらず、皇太子が決まっていなかったため、
現在の湖北省に封じられていた、いとこの朱厚璁を呼び寄せ、
帝位を継がせようとしました。
中国では、同世代の兄弟、従弟、親戚は、名前に共通の文字を使います。
正徳帝と同じ"厚"の字を持つので、同世代だとわかりますね。
さてこの朱厚璁、北京にやってきたのに、崇文門の辺りに留まったまま、
紫禁城に入城しません。
当時の世継ぎのしきたりでは、
まず皇太子となってからでないと皇帝になれません。
彼も皇太子として紫禁城に入った後、正式に皇帝になることが求められました。
そして、皇太子は東華門から入城しなければなりません。
しかし、当時16歳の朱厚璁は、
「自分は皇帝を継ぎに来たのだから、皇太子の扱いは許せない。
午門から入場させるべきだ。
東華門からしか入城させないのなら、世継ぎは断る。」
こんなわがままを言ったそうです。
困った宮廷は、相談の結果、
皇太后に謁見するとの名目で、午門からの入城を許可したそうです。
これが第12代嘉靖帝、
即位後もわがままは直らず、意見の異なる官僚を次々に追放し、
挙句の果てには、自身で政治を見ることをやめてしまい、
一切を家臣に任せるようになってしまいました。
私は、わがままではないので、
東華門からでよいから故宮に入れてくれと頼みましたが、
あっさり断られました。

東華門の外にはお堀があり、遠くに角楼も見えます。
現在の東華門は、こんな政争には関係なく、
朝から人々が釣りをしています。
お堀の脇にあるフュージョン・レストラン"四合軒"で、
週末の夕方にライトアップされた東華門を眺めながら食事をし、
食後はお堀端を散歩する。
絶好のデート・コースですね、
お相手さえいれば。
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- 2007/07/08(日) 19:50:43|
- 北京でお散歩
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