
格式ある四合院を利用したレストラン"桂公府”。
会社からも近いので、よく接待に使います。
北京駅前から、長安街を抜けて朝陽門内南小街をまっすぐ北上、
金宝街を過ぎたら最初の信号を右に入ったあたりです。
新しい団地に囲まれてぽつんと残されたこの四合院。
西太后の弟、承恩公桂祥の邸宅でした。
桂祥は"桂公爺"と呼ばれていたので、
この邸宅も"桂公府"と呼ばれるようになったそうです。
レストランのおしぼりが入った紙袋には、こんなことが書かれてます:
「西太后が宮中に入る前、娘の時代に住んだ家」
オヤッ?
入口を入ったすぐ左手に、
こんな建物があります。

上馬石が置かれ、正面には八の字の照壁。
今ではガラスがはめられて、食料置き場になってますが、
明らかに門です。
裏に回ると門トンが。

本来なら真ん中の穴の上に、柱が乗っていたはずです。
でも、地位の高い人の邸宅に間違いないですね。
いつか、中国国際航空に乗った時、
機内誌を読んでいたら桂公府を紹介する記事がありました。
筆者によると、西太后はこの家で生まれたのではないそうです。
では、お店のお絞りに書いてあるのはウソか?
私も調べてみました。
明の時代、このあたりには"方家園”という庭園がありました。
だから、今でも住所は"芳家園胡同"です。
庭園が廃れた後は、凈業庵という寺が建ちましたが、
それもそのうち無くなったようです。
この凈業庵の跡地に、自分の邸宅を建てたのが、
都統(満州八旗の各旗の責任者)を務めていた、勝保です。
時は咸豊年間といいますから、西太后のご主人の治世ですね。
ところが勝保は罪に問われて死刑となり、自宅は没収、
権力者の西太后が、自分の弟の桂祥に与えたというわけです。
今残っている建物は三進の四合院(中庭が3つある)だけですが、
当時はこの東西に2つずつ四合院を抱えた大豪邸でした。
こちらは先程の門を抜けたところにある、一進の正房。

ところで、"桂公爺"桂祥には娘がいました。
お世辞にも美人とは言えなかったそうですが、
その彼女が後に光緒帝の皇后になりました。
3歳年上の姉さん女房です。
これにも物語があります。
機内誌にも書いてあった気がします。
もともとは皇后あるいは側室としてではなく、
皇帝の世話係として後宮に入った西太后、
咸豊帝のお手がつき、世継ぎを生んだことで権力を握りました。
咸豊帝の死後、若くして帝位についたのが息子の同治帝です。
彼もすぐに亡くなったので、咸豊帝の弟の息子、
西太后から見れば甥に当たる光緒帝が、幼い皇帝となりました。
光緒帝が13歳で嫁を娶る時、最終候補は5人。
2組の姉妹と、桂祥の娘(西太后の血のつながった姪)です。
候補者が皇帝の前に並び、
皇帝は気に入った女性に如意を渡すのがしきたりです。
光緒帝が、きれいな姉妹の一人に如意を渡そうとした時、
見ていた西太后が一喝、「陛下!」
やっと意図を察した光緒帝は、西太后の姪に如意を渡しました。
同時に、側室も選ぶのですが、
きれいな姉妹が側にいては、自分の姪が疎んじられるだろうと、
西太后はこの姉妹は除外し、残った姉妹を側室にしました。
西太后の気遣いむなしく、桂公府で生まれたこの姪はやっぱり疎んじられ、
光緒帝の寵愛は、美しくて聡明な、側室の妹の方に向かいました。
彼女が、後に悲劇を呼んだ珍妃です。

ウンチクを垂れていたら、食べ物の紹介ができなくなっちゃいました。
食事をしたのは、こちら三進の正房。
もう少し涼しくなったら、藤棚の下で食べるのも、気持ちいいですよ。
- 2007/09/07(金) 08:08:11|
- 北京でお散歩
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