
皆さん、宋慶齢という方をご存知ですよね。
有名な宋家三姉妹の次女で、孫文の妻。
夫の死後は国民党左派として、共産党との協調路線をとり、
中華人民共和国成立時には、国民党員の身分のまま、
中央人民政府副主席となりました。
亡くなる直前に共産党員への入党が許され、
名誉国家主席の称号ももらった2週間後に88年の生涯を閉じました。
当時の指導者の常で、宋慶齢もあちこちと住まいを変えており、
彼女の旧居も、たくさんあります。
北京では、後海のほとりにある旧居が有名ですが、
王府井のわが家の近くにも旧居があることを、最近知りました。
こちらは、孫文と結婚後二人で暮らした上海の家です。
孫文の秘書をしていた22歳の宋慶齢は、27歳の年の差を克服して結婚、
今で言えば、略奪婚でした。
1925年に夫が死んだ後も、しばらくここに住んでいたそうです。

こちらは、北京の後海北岸にある旧居。
1963年、70歳の時にここに移り住み、
1981年に亡くなるまでここで執務を行っていました。

元はといえば、清末の醇親王府の花園です。
醇親王というのは、光緒帝の弟で宣統帝溥儀のお父さん。
ラストエンペラーは、ここで生まれたわけです。
さて、冒頭の写真が、今日のテーマであるもう一つの宋慶齢故居。
住所は、東城区朝陽門内南小街439号
公開はされておらず、いつも重そうな門が閉まってます。

この家が建築されたのは1920年代。
当時このあたりは日本人街だったらしく、
日本の特務(スパイ)機関もここにあったとか。
終戦後は、アメリカ大使John Leighton Stuartも住んでいました。
中国名を"司徒雷登"というこの人物、アメリカキリスト教会の牧師で、
更には燕京大学の学長も務めました。
毛沢東の『別了,司徒雷登』という文章により中国では相当有名だそうです。
でも、アメリカではまったく無名らしい。
そして肝腎の宋慶齢。
1949年初、上海から建国事業のため北京に来た時から、
1958年9月までここに住んでいたそうです。
門にはいつも鉄製の引き戸が閉まっていますが、
この日は少しだけ隙間が開いてました。
隙間にレンズを当ててパチリ。

きれいに整備された中庭でした。
さて、この宋慶齢邸の近くに、別の洋館があります。

ここに住んでいたのが、
国民党左派で国民党革命委員会の主席を務め、
新中国建国時に、宋慶齢と同じく中央人民政府副主席となった
李済深です。
元々は広東軍閥の出身で、
一時は白色テロ(共産党弾圧)にも参加したのですが、
急に右から左に変わっていったようです。
1948年12月、彼が北京入りした当時は、四合院だったものを、
1953年に壊してこの洋館を建てたとのこと。
1959年に死ぬまでここに暮らしていたそうです。

住所は西総布胡同9号
中国国際友誼促進会って、何をする機関なんでしょう?
- 2007/11/12(月) 07:40:18|
- 北京でお散歩
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